

ノーベル物理学賞を受賞した 小柴昌俊さんの紹介
小柴さんは1926年に愛知県で生まれ、現在84歳になります。東京大学理学部の物理学科を卒業した後、アメリカのロチェスター大学院に進みました。理学博士の学位をもっています。
仕事は、東京大学理学部の教授や素粒子物理学国際センター長などを歴任し、現在は東京大学の名誉教授や財団法人平成基礎科学財団理事長などをしています。2002年にはノーベル物理学賞を受賞しています。
世界的に有名な科学者で、これまで書かれた本は多数ですが、例えば『ニュートリノ天体物理学入門』(講談社ブルーバックス)、『やればできる』(新潮文庫)、『物理屋になりたかったんだよ』(朝日選書)などがあります。
この本は、小柴さんの生い立ちから子ども時代、そして青春時代までの様子がわかりやすく書かれています。そして、世界的に有名なカミオカンデを使った実験とその成果によるノーベル物理学賞受賞のいきさつなどが詳しく説明されています。
どこの章から読んでも大変楽しく、胸がわくわくする本です。
それでは、この本の著者、小柴昌俊さんの目次にしたがって内容を紹介します。
1 ニュートリノ観測に成功!
2 子ども時代と青春時代
3 研究者として歩みだす
4 朝永振一郎先生
5 カミオカンデをつくる
6 ノーベル賞と財団の夢
あとがき
目次を見てみますと、どの項目も楽しそうな内容です。ここでは、それらのいくつかを紹介します。
ニュートリノって何?
小柴さんが研究しているニュートリノという言葉を皆さんは聞いたことがあるでしょうか。この本には次のように書かれています。
ニュートリノというのは、電子やクォークなどともに、あらゆる物の根本である素粒子です。この素粒子は、電気をもたず、他の物にぶつかっても、止まったりまがったり曲ったりせずにその物を突き抜けていくというのです。そして、ニュートリノという言葉、ニューというのですから英語の「新しい」という言葉に関係しているのかなと思いましたら、イタリア語の中性を意味する「ニュートロ」という言葉に、同じくイタリア語で小さいという意味をなす「イノ」がくっつき「ニュートリノ」という言葉になったというのです。ニュートリノとは、「とても小さな中性子」という意味になるのですね。
このニュートリノは、星が死ぬ時に爆発を起こし小さくつぶれるときに、その瞬間にものすごい数となって宇宙に散らばってくるのです。
ニュートリノは観測できるの?
ところで、ニュートリノは「とても小さな中性子」という意味でしたが、これを観測することは可能なのでしょうか。小柴さんは、300トンの水が入る円筒形の貯水タンクの一面に巨大な電球のような形をした、光電子倍増管を多くつけ世界最大の装置を開発しました。カミオカンデと呼ばれている装置を開発し、太陽のニュートリノを観測しようとして成功したのです。皆さんの中には、このカミオカンデということばを知っている方もいるでしょう。この「カミオカ」の意味は、岐阜県の神岡鉱山の「カミオカ」、そして、「ンデ」は陽子や中性子といった核子の崩壊を観測する実験を意味しているというのです。つまり、神岡に作った、太陽のニュートリノを観測する実験装置全体をカミオカンデということになります。
わんぱくな子どもから時代から、長い闘病生活へ
小柴さんはわんぱくだったようです。小学校1年のころ、通学途中に使われていない古い役場の窓ガラスに石をぶつけて次々壊して遊んでいたら、見つかってうんと怒られたというのです。そして、日ごろの行いが悪いということから、成積に一番低い点をつけられてしまいました。
ところが、中学校に入学した年のある朝、起きようとしたら、両手両足がマヒし動かなくなって起きられないのです。そして、その日の夕方、今度は39度の高熱が出ました。医者に診てもらうと、感染症のジフテリアとわかり、ポリオ(小児マヒ)にかかってしまったのです。長い期間、一日中、2階の部屋に一人で寝かされて、両手両足を使って四つん這いで、はって歩くことしかできませんでした。その後遺症が残り、一番マヒのひどかった右腕だけは、良くならず、いまだに右腕は、不自由です。
ビリに近い成績で東京大学を卒業
1951年、小柴さんは、東京大学の物理学科をビリに近い成績で卒業しました。皆さんも驚いているように、その小柴さんが世界的なノーベル物理学賞を受賞したのです。このことに関連して、人間が実社会に出て仕事をしたり、大学院で研究生活を送ったりする上で、大切なことは、筆記試験で測れるような受け身の力ではないと書いています。続けて、受け身の力よりも自分が何かをしようとする能動的な力が大切だと示しています。そして結論として、人間の実力は受け身の能力と能動的な力の両方が必要だと強調しています。
ここで、引用がやや長くなりますが、小柴さんが卒業生に向けたはなむけの言葉を紹介します。「私は筆記試験の成績が悪かったけれど、なにかをやろうという能動的な力がほかの人に負けないぐらいあったので、ある程度のことはやれました。だから、成績が半分より下の人もあきらめないで、能動的にも力を発揮するようつとめなさい。成績が上の人もこれで慢心してはダメだよ」。大変、感動的な言葉です。皆さんはどのように受け止めますか。心にずっしりきませんか。
朝永振一郎先生
小柴さんは、この本の中で、朝永振一郎さんのことを先生と呼んでいます。朝永先生は、東京教育大学の学長や日本学術会議の会長などを歴任され、偉大な物理学者です。日本人として湯川秀樹さんの次、2番目にノーベル物理学賞を受賞しています。受賞となった研究は、量子力学という学問で、皆さんの中にもこの言葉を知っている方も多いと思います。小柴さんは、人生の中で、一番幸せことと言ったら、朝永振一郎先生に出会ったこと、「あんないい先生はほかにはいなかったなあ。」と書いています。
その研究の本である『量子力学』の英訳を依頼され、小柴さんは量子力学の研究を広く、世界に紹介することとなったのです。家族ぐるみのお付き合いを進めながら、二人で大好きなお酒を飲むことが最大の楽しみだったようです。
ミュー粒子の束を実験で確かめる
地球にはいろいろな宇宙線が降りそそいでいます。その宇宙線の中には、いろいろな重さの原子核が混ざっていて、ヘリウムや鉄のような重い元素の原子核も含まれています。このような原子核が空の上で、大気の分子とぶつかると、たくさんの中間子をつくり、その中間子が崩壊してミュー粒子になります。
このことから、宇宙線が降り注いでいる時に、ミュー粒子が大きな束になって、地球に降りかかっていると考えることが考えられます。このミュー粒子が本当に降り注いでいることを、小柴さんは大学の助手に確かめるよう実験を依頼したのです。実験場所の条件は、まず宇宙線の少ない地下にある鉱山で、それも大きな空洞を掘っても崩れず大丈夫なように岩盤がしっかりしていることが求められました。しかし、皆さんも社会科で学習したような足尾銅山や釜石鉄山などは不適当だと判断されました。なぜかというと、これらの山の地下水が酸性であるために、鉄でできた実験装置を運び入れるとすぐに腐食してしまう恐れがあるというのです。
これに比べて、神岡鉱山は鉛や亜鉛の鉱山であることから、地下水が酸性でないため、実験装置が腐食しないことがわかりました。しかも、岩盤が頑丈で対震性も高いことから神岡鉱山が選ばれたわけです。このように、実験というのは、その場所の選定というのが大変大切だということがわかりました。
ノーベル物理学賞受賞
2002年10月8日の夕方、東京・杉並の小柴さんの家にノーベル物理学賞受賞の電話がかかってきました。スウェーデン王立科学アカデミーノーベル委員会の審査委員長からの電話でした。小柴さんは、「ザッツベリーナイス、サンキュー」と返事をしたそうです。その時の気持ちを、「うれしかったというよりは、『ようやく来たな』というのが正直な感想でした」と書いています。なんと、素敵で、感動的な言葉でしょう。長い間待っていたのだと思います。
もっと驚く言葉は、受賞の記者会見での質問に答えた言葉はハッとさせられます。記者が「夢は何か」と質問した時に、「これからの夢は、教え子がノーベル賞をもらうことだ」と答えたのです。この言葉は私の心に深く刻み込まれ、自分ならこのように答えることができるかと反省しました。でも、小柴さんに学んで、これから、私にも、教え子に何かができるという自信や決意が生まれたことは確かです。
「心に、夢の卵を3つか4つ、もっておきなさい」
小柴さんは、若い人にいつも、「心に、夢の卵を3つか4つ、もっておきなさい」と言うのだそうです。なぜでしょうか、小柴さんの文をそのまま紹介します。
「先生の言われるとおりに勉強するとか、父親が『医学部に行け』『弁護士になれ』というから勉強するとか、自分がこれをやりたいと感じないことをやっている人がいます。しかし、私に言わせれば、それは自分の人生ではありません。そうではなく、若いうちに物怖じ(ものおじ)しないでいろんなことに挑戦し、体験してみて、その中から「あ、これならやれる」「これならやりたい」と実感できるものを見つけておくことです。そして、自分が見つけた夢の卵を大事に育て、雛にかえしてほしいと願っています。」
皆さんは、この文章をどのように受け止めるでしょうか。心に夢を3つか4つ、夢は1つでもよいかもしれない。しかし、2つあればもっと自分が膨らんで行く、3つあればさらに、4つあれば、自分の中に秘めている力の大きさや広さに気づいていくのでしょう。
最後に、読者のみなさんの夢は何ですか。いくつありますか。うーん、さすが素敵ですね。
文 小川哲男
昭和女子大学大学院教授 博士(教育学) 専門:理科教育学。宮城県仙台市に生まれ、東京都の公立小学校で16年間、学校の先生をしました。その後、東京の武蔵野市教育委員会や都立教育研究所で、10年間、先生方の研修やお手伝いをしてきました。今は、昭和女子大学の大学院で学校の先生や幼稚園の先生になる学生を教えています。専門的に勉強しているのは、理科と生活科、そして総合的な学習についてです。私は、春が大好きです。桜の木の下でのお花見ができるからです。
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